前ページの安政江戸地震で、ほぼ3分の1が倒壊したのが三十三間堂。えっ?三十三間堂なら京都(蓮華王院)でしょ、と思うだろうが、実は江戸にもあった。
本堂の端から端まで約120メートルを射抜く「通し矢」を、是非江戸でも、というわけで将軍家光が寛永19年(1642年)に建立。場所は深川ではなく、浅草だった。
浅草なら深川とは関係ないではないかとツッコミを入れられそうだが、実は初代の三十三間堂は元禄11年(1698年)の大火(勅額火事)で焼失、3年後の元禄14年(1701)に富岡八幡宮東側に再建された。
しかし、信仰目的というよりは武芸場としての性格が強かったようで、今では三十三間堂という名前はどこにも残っていないのに、浅草の「矢先稲荷」とか深川の「数矢小学校」といった名が残っているのが興味深い。
さて、再建から154年もの歳月を経て、今度は安政の大地震である。文久2年(1862年)には、修復工事も完了するのだが、結局倒壊部分は再建されないまま、明治5年(1872年)に解体されてしまった。この広重の絵は地震後に描かれたために全体像が見えないという説もある。