ところで、なぜ前述の「剣客商売」で富岡八幡が行楽地のように書かれているかということだが、実は左頁の絵に描かれているように、敷地内に広大かつ美しい庭園を擁してしたからである。
この庭園、毎春の半月間のみ「山開き」として庭園を一般に公開していたようだ。絵に桜の木が描かれているのを見ても、江戸屈指の花見の名所であったことがうかがわれる。観光地としての人気に伴い、仲町通りと呼ばれた一の鳥居から表門までの3〜4町は繁華街として発展し、「両側、茶屋、料理屋軒を並べて、つねに弦楽の声絶えず」(江戸名所図会)という記述が残っている。富岡八幡一帯は、今で言うテーマパークのようなものであったかもしれない。
ちなみに、絵の左手奥にある築山は、現在の数矢小西門に至る路地の右手にあったもの。これが「富士講」の「見立て富士」の一種なのか、富士に似せたただの築山なのかは不明だが、「御富士山」の名で戦後まで残っていた。